< 飯原 誉士・・・引退した鈴木健の背番号「9」を着けることになった。長らく左翼手を務めていたアレックス・ラミレスの移籍で7番左翼手として開幕。5月から一気に調子を落としレフトの福地寿樹に奪われる。その後は不振に陥りレギュラー落ちしたアーロン・ガイエルの代わりにライトに回った福地の代わりのレフトとして長らく川島慶三や武内晋一と併用されていたが、6月後半から息を吹き返して7番に復帰。失速せずに調子を上げたことが認められ、青木宣親が五輪で離脱中は3番に抜擢される。その過程で3割に到達。長打も打てる存在として青木の復帰後は5番に定着した。飯原 誉士 wiki
福地 寿樹・・・2008年1月9日に入団発表を行い、背番号は29に決定した。開幕スタメンの座は逃したものの、徐々に調子を上げて1番バッターとして定着するようになり、8月12日より7試合連続マルチ安打を達成。最終的には131試合に出場して初の規定打席に到達し、打率.320、9本塁打、61打点、155安打と自己最高の成績を残した。また、俊足を活かしてリーグ最多となる7本の三塁打を放った。このシーズンは42盗塁でセ・リーグ盗塁王を獲得、15年目にして初のタイトルとなった。また、9月17日にはプロ初のクリーンナップでのスタメン起用(5番打者)となった。 9月28日の広島市民球場公式戦最終戦で奇しくも広島市民球場での最後の打者となり、永川勝浩の前に空振り三振に倒れ、思い出の球場に別れを告げている(2安打1打点1盗塁と活躍した)。最終戦の10月12日には自身初の一塁手で先発出場し、一塁守備も無難にこなした。その活躍からWBC日本代表候補に名前が挙がっている。福地 寿樹 wiki
川島 慶三・・・藤井秀悟、坂元弥太郎、三木肇と3対3の交換トレードで、橋本義隆、押本健彦と共に東京ヤクルトスワローズへ移籍した。かねて川島を買っていた前日ハムGM・東京ヤクルト新監督の高田繁の働きかけによるものであり、高田は「出血覚悟で藤井の名前を出したら乗ってきた」と語っている。[1]川島自身も入団会見において高田の胴上げを目標としてあげている。高田が川島を内野手として起用しようと考えたため、再び内野手登録になった。 オープン戦では12球団で2位の打率を残し、開幕から1番・三塁手として出場。まもなく故障するものの、復帰し中盤からは宮本慎也に代わり遊撃手としての出場も多くなった。規定打席には約30打席足りなかったが、プロ初本塁打を放つなど初めて1軍野手として過ごしたシーズンとなった。川島 慶三 wiki
2008年はオールスターに4度目の出場。北京オリンピック野球日本代表にも選出された。オールスターと代表には遊撃手の川崎宗則、西岡剛らも選出されたこともあり、オールスターでは三塁手としても出場。しかし、その守備は不安定で悪送球による失策を記録した。北京五輪では、川崎の故障によって主に遊撃手を務め、三塁を守る機会はほとんどなかった。ペナントレースでは中軸打者のクレイグ・ブラゼルやG.G.佐藤が不調に陥った際に消化試合以外では自身初の4番を打つこともあり、4年ぶりに20本塁打を記録。前半戦終了時ではリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったが、それでも首位打者リック・ショートと7毛差のリーグ2位、自己最高打率をマーク。四球もチームトップの55個を選び、最高出塁率で初タイトルを獲得した。盗塁数も25個(成功率.833)と初めて20盗塁をクリア。遊撃の守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位。課題だった送球ミスも減り、前年と比べて安定した守備を見せ、ゴールデングラブ賞とベストナインを初受賞した。2009年に開催されるWBCの第一次候補選手でもある。中島 裕之 wiki
2008年、集大成の年と位置づけ、「気力で臨む」としたシーズンだったが、一軍出場は僅か3試合に留まり、10月3日、現役引退を表明[1]。その後巨人の公式戦最終試合となる10月11日のヤクルト戦では7回からの途中出場でマスクをかぶり、9回には自身最後の打席に立った(対戦相手は木田優夫で結果はレフトフライ)。村田の打席終了後に他の選手がベンチ前で出迎え、高橋由伸が花束を手渡した。今後はフロント入りする予定。村田 善則 wiki
河野 友軌・・・2008年も二軍で打率.172と不振で、2年連続で一軍出場が無く、10月1日に横浜ベイスターズから戦力外通告を受ける。11月11日に開かれた一度目の12球団合同トライアウトに参加し最終打席でポール直撃の本塁打を放つが、その数日後自身のブログで現役引退を表明した。本塁打については「野球の神様が打たせてくれた」と語っている。河野 友軌 wiki
2008年は育成選手として再起に励んでいたが、二軍の公式戦で5試合に登板したのみで、球団から戦力外通告を受け退団。その後12球団合同トライアウトに参加したが、元同僚の山本光将にホームランを打たれるなど納得のいく結果が残せず、他球団から声は掛からなかった。巨人などから打撃投手として契約の打診はあったが、三木は現役にこだわり、社会人野球選手として鷺宮製作所へ加入することになった。三木 均 wiki
木佐貫 洋・・・高校時代から注目されていた投手で、速球とフォークのコンビネーションで三振の山を築くスタイルは当時からである。1998年、高校3年次の夏の選手権大会・鹿児島予選決勝では杉内俊哉を擁する鹿児島実業に1-3で惜敗。甲子園出場を逃した。鹿児島県大会はこの年まで準々決勝と準決勝の間に休養日がなく、日程の関係上、杉内は準決勝と決勝の2連投だったが、木佐貫は準々決勝から3日連続登板。準決勝は雨によりナイターゲームとなった為、翌日の決勝に疲労を残していた。鹿児島実業は1日の休養が有った。これを受けて県大会の日程に問題有りとされ、後に日程が見直される発端となった。木佐貫 洋 wiki
三垣 勝巳・・・1998年8月20日に甲子園球場で行われた第80回全国高等学校野球選手権大会準々決勝第1試合で行われた南大阪代表・PL学園と東神奈川代表・横浜との試合である。 この年、横浜は春のセンバツ大会の優勝チームであり、史上5校目の春夏連覇がかかっていた。また、この両チームはセンバツでも1度対戦しておりこの時は横浜が3-2で勝利している。PL学園が選抜での敗戦の雪辱を果たせるか、もしくは横浜が連勝するか、注目を集めていた。 名勝負としては松山商業対三沢延長決勝延長18回引き分け再試合、駒大苫小牧対早稲田実業決勝延長15回引き分け再試合に匹敵する物とされている。1999年のセンバツ大会も再びPL学園と初戦で対戦となり3期連続対戦となったが、PL学園が6-5で勝利している。PL学園対横浜延長17回 wiki
同年のドラフト会議では、オリックス・ブルーウェーブと福岡ダイエーホークスが1位指名で競合。オリックスが交渉権を獲得したが、新垣はダイエーへの入団を希望していたため交渉は難航。オリックスの三輪田勝利編成部長(スカウト)が新垣の実家を訪れるなど熱心に交渉をしたが拒否を貫いた。その後、三輪田スカウトが飛び降り自殺をする大騒動となったが、新垣はオリックスへの入団を断り九州共立大学へ進学した。新垣は後にインタビューで、「自分が活躍することが最初に評価してくれた三輪田さんへの恩返し」と語っている。新垣 渚 wiki
但し前田自身は「野球をやっている間は、本音はあまり言わないようにしている」と語っており、『前田智徳』という人物像を演じている部分もある。また性格的にも凝り性で執着心が強く、事ある毎に涙をこぼす泣き虫。そして自他共に認める無類の照れ屋でもある。そのため、下記の発言全てが前田の本心を示しているか否かは定かではない。前田 智徳 wiki
藤川の最大の武器であるストレートは「火の玉ストレート」とも呼ばれ、最速155km/hの球速以上に、驚異的な球の伸びが特徴である。藤川のストレートの球筋は、他の投手の様に落差が生じるものではなく“浮き上がるような伸びた球”と言われている。明らかに高目へ外れたストレートでさえ、打者がボール2〜3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なるストレートの軌道に起因している。一部マスコミ、評論家などは、藤川のストレートは「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。藤川 球児 wiki
現役時のヒッティングマーチの原曲は「ミッキーマウスマーチ」で、1980年代後半において外野の阪神ファンはこの曲にあわせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながらシートの上を1列になって左右に移動していたが、この動きは真弓ダンスと呼ばれた。しかしこのダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかではあるが揺れていることが明らかになると、スタンドが老朽化していたこともあってこの「真弓ダンス」は自粛することになった。同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカもこの曲であった。真弓 明信 wiki